嘉来流・迷路講座


私(嘉来)が希望する、粋な迷路の解き方
 
 
ようこそ、嘉来的世界へ。
どうぞごゆっくりと、迷路の世界をお楽しみください。
このコラムでは、迷路の解き方について、私の希望を述べてみます。
この「嘉来的世界」の迷路を解くにあたって、皆様は次にあげるどちらかの方法をとることでしょう。
1 .その場の画面上で解く
2. 紙に印刷して解く。
1の方法を採用する方には私は何も申しません。どんどん迷路を楽しんでください。2の方法には、迷路画像をダウンロードして図形処理ソフトで開く場合を含みます。こちらの方法を採用する方には、私は一言申さねばなりません。どうか、迷路には自分が通った軌跡を記さないで下さい。
私は、皆様が「嘉来的世界」の迷路を解く場合はその場の画面上で解くという想定をしています。しかし中には紙に印刷して解く人もいらっしゃることでしょう。現に、私の知人の何人かはそうしています。では、迷路をその場の画面上で解く場合に比べて、紙に印刷して解く場合の利点は何なのでしょうか。

「紙に印刷すると迷路の持ち運びが可能になって、いつでもどこでも楽しめるようになる。」
「紙に印刷すると、解くときに鉛筆で軌跡を記せるようになる。」

大きな利点はこの二つです。前者の考えにしたがって迷路を楽しんで頂くことは、迷路作成者として喜ばしいことです。「迷路を気に入って頂き、誠にありがとうございます。」と感謝したくなるほどです。しかし、後者の考えには私は感心しません。なぜなら、迷路に軌跡を残すという行為が、迷路に込められた作成者の意図を簡単に破ってしまうからです。

例えば袋小路にはまり込んだとき、そこに至るまでの軌跡が紙面に残っていると、もう二度とその道には足を踏み入れないことでしょう。そしてその袋小路から引き返したりスタートからやり直すことはせずに、軌跡の上の途中の分岐点からいきなり再スタートしてしまうことでしょう。その結果、短時間のうちに全ての道順が洗われ、ゴールすることになります。正解道順を探すのにそんなふうにシラミツブシ的になってしまうのは、興醒めというものではないでしょうか。

迷路の中には、解く人に錯覚を起こさせることを意図したものや、道順の記憶を曖昧にさせて何度でも迷わせようというささやかな試みを意図したものもあります。迷路に軌跡を残すという行為は、これらの意図をあっさりと、見事なまでに打ち砕いてしまうのです。
これに対し、迷路をその場の画面上で解く場合は軌跡が記されないため、袋小路にはまり込んだ場合はそのまま引き返すかスタートからやり直すことになります。つまり、同じ過ちを繰り返す可能性があるのです。

作成者の側から言いますと、解く人にはできるだけ長い時間迷っていてほしいものなのです。「さっきもこの道を通ったような気がするなぁ。」「あれっ、こっちは行き止まりだったかな?」と自分の錯覚を疑ってみたり曖昧な記憶をもとに進んでいる状態が、解いている人にとっても作成した人にとっても迷路の醍醐味を実感する最も楽しい状態なのです。

キーワードは「記憶の不確かさ」です。

私が皆様に希望する迷路の解き方とはつまり、こういうことです。

迷路をその場の画面上で解く。紙に印刷して解く場合は軌跡を記さない。先の細い棒で画面または紙面をなぞりましょう。

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